みなさんこんにちは、本サイト「建築LIFE」を運営しているたけです。
今回は、東京都千代田区丸の内に建つ「帝国劇場」の歴史や建築的特徴について解説していきたいと思います。
歴史のある劇場施設です。
是非最後までご覧ください。
帝国劇場(帝劇ビル・国際ビル)の概要

帝国劇場(帝劇ビル・国際ビル)は、1911年に開場した劇場施設である。
現在、丸の内に建っている施設は1966年に建設された2代目帝国劇場で、美術館・オフィス・店舗といった複数の機能を併設している。
2代目帝国劇場の設計は、外観と劇場内装を「谷口吉郎」、その他の部分を「三菱地所」と「阿部事務所」が担当。
建築全体はシンプルな箱型建築となっているが、どこか劇場らしい気品を感じられる魅力的な建築作品となっている。
設計者:谷口吉郎とは?
- 1904 金沢市に生まれる
- 1928 東京帝国大学工学部建築学科卒業
- 1929 東京工業大学講師となる
- 1943 同大学の教授に就任
- 1978 金沢市名誉市民に選ばれる
- 1979 死去
谷口吉郎は、数多くの公共建築を手がけたことで知られる昭和期を代表する建築家である。
代表作としては「東京国立近代美術館」や「帝国劇場」などが知られており、日本を代表する建築作品を数多く残している。
また、谷口吉郎は金沢市生まれで、1978年に建築界における偉大な功績が認められ「金沢市名誉市民」第一号にも選ばれている。
さらに、谷口吉郎の息子「谷口吉生」も建築家をしており、「ニューヨーク近代美術館」の設計を務めるなど世界的に活躍している。
帝国劇場(帝劇ビル・国際ビル)の建築的特徴
初代・帝国劇場は1911年開場

帝国劇場が最初に開場したのは1911年のことである。
日本で最初の洋風劇場として開場した帝国劇場は、フランス・ルネサンス様式を用いた格式高い建築物であった。
建築の設計は、日本における鉄骨建築の先駆者としても知られる建築家「横河民輔」が担当した。
2代目・帝国劇場は1966年竣工

現在建っている2代目・帝国劇場が竣工したのは1966年のことである。
初代・帝国劇場とは打って変わって、ガラスのファサードで全面が覆われたモダニズム建築になっていることがわかる。
ファサードの設計は「谷口吉郎」が担当しているのだが、この建築、少々ややこしい事情があるのでその部分だけ軽く説明しておきたい。
「帝劇ビル」「国際ビル」という2つの名を持つ建築物

帝国劇場が入るこの建築物には、「帝劇ビル」と「国際ビル」という2つの名がつけられている。
そして、建物全体は一つのビルとして建設されているのだが、建物内部は上の図のように、帝劇ビル部分と国際ビル部分がそれぞれ別々の設計者によって設計されている。
帝劇ビルは「阿部事務所」、国際ビルは「三菱地所」、外装と帝国劇場の内装が「谷口吉郎」の設計である。
なぜ、このような複雑な構造になっているかというと、元々この敷地には「帝国劇場」と「三菱3号館」という建物が別々に建っており、その2つの建物を統合する形でこの帝劇ビル・国際ビルが建てられたからである。
つまり、所有者の異なるビルを統合して建てたけど、所有区分に関しては前のまま残っているという状態なのである。
シンプルな箱の中に収まる劇場空間

帝国劇場は見ての通り、とてもシンプルな箱型建築である。
この構成に関しては「劇場らしくない」といった声もあるようだが、立地や共同ビルといった諸々の条件が重なった結果、こうせざるを得なかったというのが実情であろう。
そのため、ファサードデザインだけでここまでの品格を外観に付与した谷口吉郎は、やはりさすがとしか言いようがない。
百尺規制の名残を残す建築物

丸の内にはかつて「百尺規制」なるものが存在していた。
百尺規制とは、都市景観保護などの観点から「建物の高さを百尺(約31m)に抑えましょうという」という規制のことである。この規制は1970年ごろまで残っていた。
そのため、帝国劇場もこの百尺規制の慣習に則って、高さを周囲と同じ百尺に合わせて建設されている。
現在、丸の内には百尺を超える高層ビルがたくさん立ち並んでいるが、「大手町・丸の内・有楽町地区まちづくりガイドライン」などでビルの低層部を百尺で統一するルールを定めているため、昔の百尺でスカイラインが統一されていた景観は今もなお保全されている。
丸の内・有楽町の有名建築物

今回はこれで以上になります。
最後までご覧いただきありがとうございました。